INICIAR SESIÓN第34話 綿棒一本が怖い理由
検査を終えた日の夜、美月は何度も冷蔵庫を開けた。
一度目は牛乳を出すため。
二度目は翌朝のパンに塗るバターが残っているか確認するため。
三度目になると、自分でも何を探しているのか分からなかった。
「ママ」
ダイニングテーブルで宿題をしていた陽翔が、鉛筆を持ったままこちらを見る。
「なに?」
「冷蔵庫、さっきも見てたよ」
「そうだっけ」
「三回目」
「数えてたの?」
「だって開けるたびに中見て、何も取らないで閉めてるから」
美月は冷蔵庫の扉に手を掛けたまま黙った。
確かに今も何も取っていない。
「ちょっと考え事してた」
「結果のこと?」
六歳児に一発で当てられた。
「……そう」
「まだ出ないよ」
「知ってるよ」
「じゃあ
第37話 僕が開ける 翌朝、陽翔は目覚ましが鳴る前に起きた。 美月がキッチンで味噌汁を温めていると、まだ六時半にもなっていないのに、寝室の扉が開く音がした。振り返ると、陽翔がパジャマのまま立っている。「早いね。まだ寝てていいよ」「眠くない」「昨日なかなか寝なかったでしょう」「でも起きた」「顔は眠そうだけど」「眠くない」 子供がそう言い張るときは、大抵眠い。 けれど今日は、理由が分かっていた。 結果を見る日だからだ。「朝ご飯できるまで顔洗ってきて」「今日、何時に見る?」「朝からそれ?」「だって決めてないじゃん」「怜司さんにも仕事があるし、陽翔も学校あるでしょう」「学校休んじゃ駄目?」「駄目です」「今日だけ」「駄目」「結果のほうが大事じゃない?」 美月は味噌汁の火を弱め、振り返った。「大事だよ。でも、結果が大事だからって普段の生活を全部止めるのは違うの」「でも気になって勉強できないかも」「昨日の怜司さんみたいなこと言わないで」「怜司さん仕事できなかったの?」「ちょっとね」「じゃあ僕も」「真似しなくていい」 陽翔は不満そうだったが、洗面所へ向かった。 美月はその背中を見送り、少しだけ笑った。 自分だって、できるなら今すぐ見たい。 でも昨夜、陽翔が「明日にする」と決めた。 そして今日は、いつ見るのかも三人で決める。 大人が焦って、その選択まで奪うつもりはなかった。 ◇ 朝食の途中、陽翔はまた聞いた。「今日の夜?」「たぶんね」「遅い」「学校終わって、怜司さんの仕事が落ち着いてから」「七時?」
第36話 結果が来たら、三人で見る その日の夕方、陽翔が学校から帰ってくるまで、美月は検査機関から届いたメールを開かなかった。 正確には、開きたくて何度もスマートフォンへ手を伸ばした。 件名は『検査進行状況のお知らせ』。 結果そのものではない。 本文を読んだところで父親かどうかが分かるわけではなく、せいぜい現在どの工程まで進んでいるか、結果予定がいつ頃になるかが書かれているだけだろう。 それでも、怜司と「三人で見る」と決めた。 たったそれだけの約束が、美月の指を止めていた。「昔の私だったら、絶対見てたな……」 誰もいないリビングで呟く。 六年間、美月は一人で判断することに慣れすぎた。 誰かに相談している余裕がなかったという事情もある。 陽翔が熱を出せば仕事をどうするか自分で決め、保育園から呼ばれれば自分で迎えに行き、検査の説明を聞けば自分で同意書へ署名した。 誰かを待っていたら回らなかった。 だから、「三人が揃うまで見ない」という行為は、思っていた以上に落ち着かなかった。 けれど、不思議と嫌ではない。 自分だけが背負わなくてもいい。 そう思えることに、まだ慣れていないだけなのかもしれない。 ◇ 午後四時過ぎ。「ただいま!」「おかえり。手洗ってきて」「結果来た?」 ランドセルを背負ったまま第一声がそれだった。「まだ結果じゃないよ。進み具合のお知らせ」「見た?」「見てない」 陽翔が目を丸くする。「ママなのに?」「どういう意味?」「絶対先に見ると思ってた」「失礼だね」「だって朝からスマホ見てるじゃん」「今日はちゃんと我慢しました」「えらい」「だから六歳に褒められる年齢じゃないんだけ
第35話 待つ時間は、長い 検査を受けてから三日目。 結果は、まだ出ていなかった。 美月は朝起きて最初にスマートフォンを見た。 通知はない。 分かっていたのに、ほんの少しだけがっかりする。 そのあとすぐ、自分で自分に呆れた。 昨日の夜、陽翔へ「何回見ても結果は早くならないよ」と言ったばかりなのだ。 なのに母親の自分が、朝六時半から同じことをしている。「ママ」 布団の向こうから、陽翔の眠そうな声がする。「なに?」「また見た?」「何を?」「けっか」「見てません」「嘘」「通知が来てないか確認しただけ」「同じじゃん」 美月は返事に詰まった。 陽翔は布団へ半分埋まったまま、目も開けずに言う。「ママ、待つの下手」「あなたにだけは言われたくない」「僕はまだ見てないよ」「寝てたからでしょう」「じゃあ僕の勝ち」「何の勝負?」「待つやつ」「朝から変な勝負始めないで。起きなさい」「あと五分」「負けです」「何で?」「待ててないから」 陽翔が布団の中で笑う。 その笑い声に、美月も少し肩の力が抜けた。 結果が出るまで。 何日かかる。 たったそれだけのことなのに、その数日がやけに長い。 ◇ 生活は何も変わらなかった。 陽翔は学校へ行く。 美月は仕事へ行く。 怜司は会社へ行く。 三人とも、検査結果のためだけに毎日を止めることなどできない。 けれど、日常の隙間にそのことが入り込む。 美月は子供のリハビリを終え、記録を書いている途中でふと時計を見る。 まだ十一時十二
第34話 綿棒一本が怖い理由 検査を終えた日の夜、美月は何度も冷蔵庫を開けた。 一度目は牛乳を出すため。 二度目は翌朝のパンに塗るバターが残っているか確認するため。 三度目になると、自分でも何を探しているのか分からなかった。「ママ」 ダイニングテーブルで宿題をしていた陽翔が、鉛筆を持ったままこちらを見る。「なに?」「冷蔵庫、さっきも見てたよ」「そうだっけ」「三回目」「数えてたの?」「だって開けるたびに中見て、何も取らないで閉めてるから」 美月は冷蔵庫の扉に手を掛けたまま黙った。 確かに今も何も取っていない。「ちょっと考え事してた」「結果のこと?」 六歳児に一発で当てられた。「……そう」「まだ出ないよ」「知ってるよ」「じゃあ考えても同じじゃん」「そうなんだけどね」 陽翔は鉛筆を置き、いかにも大人を諭すような顔をした。「ママ、待つの下手だね」「あなたに言われたくない。今日、帰り道で何回『いつ出る?』って聞いたと思ってるの」「三回くらい?」「もっと」「覚えてない」「都合いいね」 陽翔は笑って、また算数のプリントへ戻った。 その姿を見ながら、美月は冷蔵庫を閉める。 口の中を綿棒でこすっただけだった。 採血もない。 痛みもない。 陽翔に至っては、帰りに買ったりんごジュースのほうを気にしていたくらいだ。 なのに。 あの白い綿棒一本が、美月にはひどく重く感じられた。 七年前から自分だけが知っていたことを、客観的な答えへ変えるための綿棒だったからだ。 ◇ 陽翔を寝かせたあと、美月は洗濯物を畳みながらスマートフォン
第33話 三人で決めた検査 検査機関を決めるまでに、結局三日かかった。 陽翔は初日に「一番早いところでいいじゃん」と言った。 怜司は「一番早いことと、一番信用できることは同じじゃない」と答え、美月はその横で、以前なら真っ先に「最短何日」と書かれた場所を選びそうだった男がずいぶん慎重になったものだと思った。 三人で候補を比較した。 本人確認の方法。 検体の管理。 結果の説明。 個人情報の扱い。 再検査が必要になった場合の手順。 陽翔には難しい項目も多かったが、美月と怜司は「子供だから分からなくていい」と外すのではなく、できるだけ言葉を簡単にして説明した。「これは何?」 夕食後、美月の家で資料を見ていた陽翔が、紙の一部を指差した。「本人確認」 美月が答える。「ほんにん?」「検査する人が本当にその人か確認するってこと」「僕は僕だよ」「そうなんだけどね」「顔見れば分かるじゃん」「世の中には、そうじゃない場合もあるから」 陽翔は露骨に面倒そうな顔をした。「大人って何でも紙いるね」「本当にそう」 美月は苦笑した。 怜司は向かいで資料を読みながら言う。「でも今回は、あとから『本当に陽翔くんと俺が受けた検査なのか』って疑わなくて済むほうがいい」「誰が疑うの?」「俺たち自身もだし、必要になれば他の人も」「他の人?」 陽翔が顔を上げる。 怜司は一瞬言葉を選んだ。「今すぐじゃない。でも、これから先、正式に親子だと証明しなきゃいけない場面が出る可能性もある」「学校?」「学校とは限らない」「じゃあ会社?」「会社でもない」「何?」「そこは今覚えなくていい」「また大人のやつ」
第32話 結果が違っても、会っていい? 検査をすると決めた翌日から、美月は空いた時間に親子鑑定について調べ始めた。 方法そのものは難しくない。 頬の内側を専用の綿棒でこすって細胞を採取し、二人のDNAを比較する。痛みはほとんどなく、子供でも受けられる。 けれど、調べれば調べるほど、美月が気になったのは検査方法より、その周囲に並んでいる言葉だった。『父子関係肯定確率』『父子関係を否定』『法的鑑定』『私的鑑定』『本人確認』 どれも正確でなければならない世界の言葉だ。 当然だと思う。 それでも、六年間育ててきた息子と、今になって現れた父親かもしれない男の関係を、数字と「肯定」「否定」の二文字で示されることに、美月はまだ小さな抵抗を感じていた。 昼休み。 施設の休憩室でスマートフォンを見ていると、画面の一文から目が離れなくなった。『父子関係が否定された場合——』 美月は指を止めた。 否定。 その結果が出ることはない。 少なくとも、美月の記憶が間違っていなければ。 陽翔を妊娠した時期、美月に他の相手はいなかった。そこだけは七年経っても曖昧になりようがない。 だから本当なら、恐れる必要などない。 それでも胸がざわつく。 機械が。 数字が。 自分だけが六年間握ってきた答えを、誰の目にも分かる形で確定する。 その瞬間から、怜司は「父親かもしれない人」ではなくなる。 陽翔にとっても。 美月にとっても。 そしておそらく怜司自身にとっても。「相沢さん、また難しい顔してる」 向かいの同僚に言われ、美月は画面を伏せた。「そんな顔してた?」「してた。仕事の記録で困ってる顔とは違うやつ」「どんな分類なの、それ」「子供







